2014年11月6日木曜日

心の彷徨(1、千振紀行)

ずいぶん前の話です。私はリゾート地那須にある満州開拓団の人々が開拓した千振(チブリ)地区のことを何かのきっかけで知り、その碑文を捜しに出かけました。千振はその後NHKのドラマ“開拓者たち”で有名になった地です。
満州は第二次世界大戦前に中国東北部に存在した日本の傀儡政権が建国した国です。世界史的には日本帝国主義の象徴の一つですが、私たち庶民の目からは開拓団の人々の悲劇を思い出させる地名です。開拓団は開拓と自衛のために、満州に送り込まれた人々です。大規模農業の夢を抱いて満州に渡りましたが、1945年8月、第二次世界大戦末期にソビエト連邦が日本との中立条約を破って参戦した時に、事態は一変しました。ソビエト軍の満州への侵攻に日本軍は反撃することができず、見捨てられた開拓団の人たちは日本への脱出港である大連に向かって逃げることになったのです。
1933年以来、開拓団とその家族1000人以上の人々が北部満州のチブリ地区で暮らしていました。チブリ地区は、日本との連絡港の大連まで1000キロメートル以上の距離がありました。ソビエト軍の侵攻後、約半数の人が満州の地で亡くなったそうです。家族を失いながらも日本にたどり着いた人々のうち約100人が那須山のふもとに入植、その地を千振(チブリ)と名付けました。現在も約70家族が農業、酪農を営み、開拓組合を維持しています。
このような歴史を抱えた千振地区ですが、当時その存在場所は一般によく知られていませんでした。地元の那須の人々でさへ、千振を知らない人たちが多かったように記憶しています。何度も道順を尋ねながら、どうにかこうにか見つけた千振地区。私はようやく開拓の碑を探し当て、その前に立ちました。そして碑文を読もうとしたのです。しかし、最初の一節に目をやった瞬間に涙が溢れだしたのです。溢れた涙で目がかすみ、一行を読み終えることすらできなかったのです。
家族を失って那須に到着した開拓者たちは、何に光を見たのでしょうか?どのように奮い立ったのでしょうか?それともただひたすらに鎮魂のため?ここは私の想像を越える英雄たちの開拓地。涙と鼻水で顔を腫らした私は、碑から離れて碑文をカメラに収めました。大地を見渡すと農家の軒先にゆうゆうと鯉のぼりがなびいていました。私は知ったのです。この人たちが英雄だと、大臣でも将軍でもないこの人たちこそ英雄だと。そして、家族を失った人々が新しい家族を作り上げる物語に深く感動したのです。
(文章中の数値については私の記憶を元に記載した概数であり、確認していません。また、この記録は私の英語ブログでも発信しています)
http://kinkanageha.blogspot.jp/2014/05/visited-district-chiburi-wherepeople-of.html
 
 以下は碑文の写真から私が掘り起こした英雄たちの叙事詩です
北満の本宮山に別れを告げ、
ここ那須山の麓にたどりついたのが、
昭和2111月。
皆、傷つき。皆、貧しかった。
満州に失った千余名の愛し子兄弟達のことを想うと
立つ力さえ抜けていった。
然しこの吾々を温かく抱いてくれたのは、
那須の山と村の人々、
力を振りしぼって松や檪(くぬぎ)の根っ子と取り組んだ、
月の光で荒れ地を拓き(切り開き)、
そして麦を蒔いた、出来たものは白穂だけだった。
それでもヘコタレないで拓きに拓いて、
二十年那須山に今日もゆるやかに噴煙がたなびき、
乳牛の声が緑の牧場からきこえて来る。
傷ついた千振の兄弟達がはげましあい力をあわせて
拓き造ったこの沃野だ。
二代三代さらに吾等の子孫がよき
村人として立派な日本農民としてこの
大地に育ちくれんことを、
開拓は決して死なない。

0 件のコメント:

コメントを投稿